昭和46年09月01日  月次祭



  「金光大神は」「尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ」という御理解がございます。「尽きぬおかげを話にして残しておく」と。その話というのは、しかもその「尽きぬおかげ」というのはどういうおかげの事であるか。又は「尽きぬおかげ」と「話にして残しておく」とおっしゃるその話とはどういう話なのかと。私はそれを、段々こう煎じ詰めてみると、お礼を申さして頂く生活、お詫びをさせて頂く生活、お礼そしてそれに次ぐお詫び。それでもなおかつ願わなければおられない、願いの生活。
 そういう、内容を話にしておられると思います。「一心に願え」と。と言う様なお言葉がいたるところにございます。「一心に願う」「一心の真を捧げて願う」ね、その願わなければおられぬのが私達である。その願わなければおられない私達でありながら、願うという事を知らない人が世の中にはたくさんおられます。先日も鳥栖の上野さんがあのような難儀な病気で、入院しておられました。
 けれどもそれはもう、真にまあ親類の誰かれがびっくりするほどしの、おかげをこうむって退院のおかげを頂かれましたが、お礼にお届けに見えました時に、話しておられましたけれども、すぐ隣におられる、もうそれこそ難儀な、手を切っていかなければならない、足を切っていかなければならないと言った様な方らしいんですよ。ですからお道の信心の話をさしてもろうておかげを受けておる事を。聞いてもろうて。
 お話をされて、「おかげの泉」を差し上げて読んでみて下さいと言うて、話しましたところが、「どうせなるごとしかならんでしょうが」って仰った。もう(にどこがつらいはなかった?)っち。そういうしかしその(たっかも?)そこまで(くたんぎり?)ですね(笑い)もう諦めてある。手を切り足を切り、していかんならん病気だそうです。本当に、まあ聞いただけでぞっとするような病気であるね。
 それで、こういう有難い神様がおられるからと言うてお話をしたら、「どうせなるごとしかならんでしょうが」ちゅわっしゃった。(笑い)。もうそこまでね、諦めてしまえば世の中もたいした苦労もなかろうとやっぱ思いますけれどもね。 けれどもそこにです、私共が神様を知り信心がすこし分かってまいりますとね、実を言うたら、「もう願わなければおられん」というのが私達の、本当の姿ではなかろうかと思う。同時に分かってくればくるほどに、お礼を申し上げねばならない事が沢山。
 また分かれば分からして頂くほど、日々がお詫びに徹するという人がありますが、お詫びに徹しれないにいたしましても、本当にあれもお粗末、これもご無礼とお詫びをする、言わば、低姿勢な生活とでも申しましょうか、いつも謙虚な姿でおられる生活がお詫びの信心から生まれてくる。「尽きぬおかげが受けられる」と、「金光大神はいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ」と。その話の全てがです、ね、御礼を申し上げなければならない訳ね、お詫びをしなければならない訳ね。
 それでもなおかつ、お礼を言い、おかげを頂いてもうこれ以上はいりませんと言う事はない。やはり痛ければ痛い、かゆければかゆいと願わせて頂かなければおられないほどしの神様をここにはっきりと頂けると言う事。先ほどのお届けに久留米の佐田さんがお届けをしておられます。今日はもう目をつぶれば涙が流れる。苦しい事がある訳でもない、悲しい事がある訳ではない。こうして有難いご縁を頂いて、日々信心生活の出来る事の、まあ言うならば有難さでありましょう。
 何が有難いか分からんけれども目をつぶれば有難涙がこぼれるほどしの有難い一日でしたというのがお礼のお届けでした。もうただ、「有難かのう、信心ちは有難かのう」っち言うより外にない、いわゆる有難さだった。ね。なら、そういう有難いからね、もうお詫びするところはないか、願う事はないかと言うとそうではない。ある筈である。あそこも至りません、ここも足りませんね。
 それでいてもなおかつ、願わなければおられない。そういう願いを聞き届けて下さる、そういうお礼を聞いておって下さる、そういうお詫びを神様が聞き届けて下さって、詫びが許された印に生まれてくる次の体験がです、頂けれる生活。私は金光様の信心生活とはそういう生活だと思うんです。「金光大神が尽きぬおかげを話にして残しておく」とおっしゃるのはもう、御教えの全てがそういう事だと思うんです。
  今日は午後の奉仕の時には本当に、他所の教会からお参りの方達で賑わいました。その中にです、もうほとんど、○○教会で10年間夫婦で朝参りを続けておりますという方。爺の時代からもう親子3代にわたって、まあ熱心な改式もして教徒としておかげを頂いて、随分いろいろとおかげを頂いてきたという事。ところが孫の代の私になって、次々と、いわゆる解せない事、分からない事が次々とできてくる。
 それが私の教会では、分からないね。というところから、言わば訪ね求めて、合楽にお取次を頂いてそんところをおかげを受けたいと言うのである。話を聞かせて頂いて、もう皆一様に、その、結論するならです、分かっとらんなあという事です。もうそれは驚くほど分かっとらんという事。もう合楽あたりではそげんとは幼稚園ちゅうようなごとある感じがするような事に悩んでおられる。
  話を聞いてみればやはりおかげを受けておられる。それがどこをどういうふうにお礼を申し上げていいやら分からん。「ほんならどこばお詫びすれば良いですか」と言う様な事であります。今日4時のご祈念をさして頂くちょっと前でした。日田の綾部さんが、お参りになっておられました。その時私は、神様にこういう事を頂いておった。「力ある静けさ」と頂いておった。「力ある静けさ」ね。もう不安もなからなければ心配もない。まあ暑うもなかねば寒うもない。
 まあちょうど有難い。とこうやって(めん?)をこうしておると、なぁんにも思う事も考える事もない、欲しい物もない。というほどしに、まあ例えば、恵まれておる時には、静かにしておれますね。けれどもね、力無い静けさですから、ことけたたましい電話のベルが鳴ってくるともう胸が踊る。ちょっと気にさわる事を言われるともうムカっとする。本当にその静けさというのはつかの間である。ね。力があるというのは、いわゆる信ずる力という事でしょう。神様を信ずる力。
 その力が段々出来て来る所からどんな場合であっても静かにしておれれる。けたたましいどうしようかっと言う様な問題が起こったに致しましても、慌てなさるなと。まず合楽のお届けが先たいと言えれるほどしの信心ね。それがどうしてから、却って神様にお礼を申し上げなければならないんじゃないのと、言う様な事に心の静けさを破られてしまうようなことではそれは本当の静けさじゃないね。
 神様を信ずる力がだんだんできてきて、そこからね、これから先信心する者はどのような事が起こってきても、「驚いてはならんぞ」と教えられるが、その驚かんですむ信心、慌てんですむ信心。そういう信心がです、私は日々稽古の中に積み上げられていきよらなければ、10年夫婦で朝参りを続けておりますと言うても、爺の代から信心を続けて、おかげを頂いておりますと言うても、おかげを頂いておってもいざと言う時にそう言う様な迷いが起こったり。
 もう信心はいっその事やめてしまおうかと言う様な心が起こったりすると言う事はです、「金光大神は尽きぬおかげを話にして残しておく」と仰る、そのいわゆる話にして聞いておるがどういうところを聞いておるのか。思えば思うほど、お礼を申し上げる事ばっかり、お詫びをさして頂く事ばっかり。それでも尚且つ願わなければおられん願いの信心というものがですね、そういう信心の内容というものがだんだん日々繰り返されていく内に神様の、まあいわば一分一厘の間違いなさというものをです。
 体験する事が出来る。その一分一厘の間違いのない働きの中に起きてくる、いうならばびっくりする事、けたたましい事。はっと例えば息を呑むほどしにあるような事が起きてくるに致しましても、そういう神様の一分一厘間違いのない働きの中に起きてくる事なんだという事です。今日前講を愛子が務めておりました。ここからはなかなか聞き取りにくいですけれども、まあそこここ聞かせて頂きましたけれども、これは誰だったでしょうか、私は誰だったか覚えません。
 親先生が座布団を干せと言われた。だから座布団を干した途端に雨が降り出した。親先生が言いなさった座布団が濡れてから、「今干したとにもうこげな(笑い)」と、そのこれは愛子じゃないでしょう、誰か他の人のようだった、よく聞こえなかった。けれどもその人が次の瞬間に思うた。「はあ親先生が干せとおっしゃって濡れたのだから」と思うたら、イライラもなからなければ、モヤモヤもなかったようであるね。信心とはそういうような日々を私共は稽古させて頂く。
 心も穏やかではない、けれども御取次を頂いたらもうすっきりとできれるだけの信心。いうならば御結界御取次の働きというものをです、それだけ信じれれる信心生活が身に付いていかなければならない。それが、まあ信心の稽古だという事を言っておるようでした。御取次を頂いて、起きてくる事は良い事、悪い事みな良い。御取次を頂かずして起きてくる事は良い事、悪い事みな悪い。これは有名な高橋一郎という先生のこれはお言葉です。もう、まさしくその通りです。
 御取次を頂いての働きというものは、それをそれだと信じれれるところに私共の安心の生活があると思うのです。御取次ぎを頂いての信心生活というものは。御取次を頂いて起きてくる事、良い事悪い事それはようするに、濡れて今干せと言われたから濡れた。濡れたけれどもね、良い事か悪い事か、これは悪い事でしょう。けれども結果においては皆良いと信じれれるという事なんだ。お取次を頂いて起きてくる事であるから、親先生の祈りの中に、金光大神の御取次の働きの中にある事だからと。
 心の中に安心が頂けれるという信心。そういう信心を身に付けて行くと言う事が、お道の信心の、(きみこ?)の焦点はそういうところに置かなければならないと言った様な事を、まあ、愛子が話しとったようでした。皆さんそれが信じれれると言う事が力なんです。ですから、いうならば慌てんですむ、静かにしておれれると言う事。そこで私共が日々の信心生活をです、いよいよ成り行きを大事に尊ばして頂きながら、全ての事柄を、全て御事柄として神様が私に下さるものとして。
 神様が私にお供をして下さるものとして、それを敬い、かしこんで受けて行くと言う様な信心生活。 そういう生活から生まれてくる日々の体験がです、嫌が上にも有り難いものが頂けるでしょうね。そして自分というものを振り返ってみる時にです。本当にあいすまん私であると言う事が、感じれれ、分かれば分かるほどです、にも関わらずこの様なおかげを頂いてというところにです、お礼ができお詫びができる。
  それでもう、ならそれでいいかというと、やはり願わなければおられない事がいっぱいある。そういうお礼とお詫びと願いが一つになった日々。これはねもう本当に神様の働きというものはね、もう本当に私共の知らないまにね、ほけんごとしとる間に神様がせっせと働いておって下さる。もうそれはね、驚くばかりである。その働きを私共は日々、それを、まあ百分の一か千分の一でも分からして貰う所からです、神様の働きを有難いと、いわゆる信じて頂かれる、全ての事が。
  本当に信心の力を頂いて、そして静かにしておれれる。合楽の方達の場合はそういう例えば、御理解というか御教えを日々頂いとりますからね、その今日他所の教会の信者さん方のお取次をさして頂いて、まあ信心しよってもこういう事が起こると言う事ですけれども、そういう場合には案外落ち着いておられるね。いうならここんところを、まあいうならどっこいと言う様な力で受けていかれる。
  昨日の教えがものをいう訳です。ところがね、もう日々の生活、日常生活の中に起きてくる些細な事柄の中に、私共がそれを、うかつに受け損のうてしまうような事が沢山ある。よほど目細うおかげを頂いてまいりませんとです、大きな事は頂けても小さい事が抜けてしまうというような感じがいたしますね。先日の、久留米の教会で典楽会が二日間にわたってございました。ここからも、皆楽員さん方が参りました。
 「琴が足りないから、あぁ四面ここから貸してくれ」と言う事だったからこちらから持って行く事になりましたわけですけれども、あの向こうの方から懇ろ手紙が来ておりました。「こんな訳で典楽会の講習会があるから、お宅の大事なものですけれども、琴を貸して頂きたい」。まあ大事な物ですから、あぁ「潰さん様に丁重に扱いますから、あの頂きに参りますから用意しておいて下さい」という手紙が来ておった。
 それでならもう5面も6面もあるだけでいいのですけれども、ところでいつまで経っても取りに来なさらん。いよいよもう典楽会になるその日になっても、取りに来なさらん。それで、楽員の方達はもう取りに来ておるものと思うて、ここにお礼に出て久留米に行くつもりで来たものがまだ琴が表に立てかけてある。どうした事だろうかと、なら久留米に電話を掛けてみようと言うて電話を掛けましたところが何か手違いで、取りに行けなかったというのである。
 だからそちらから持ってきてくれんでしょうかと言う事であると。そんならそんな事前の晩からでも言うときゃね、前の晩から言うときゃ、あぁ朝の御祈念に参って来ておる皆さんに、誰か頼んで持って行ってもらうのに。でなかったら今朝でも早うに掛けてもらえれば朝の御祈念に参って来ておる間に頼まれるとに、もう皆帰った後に、今頃そんな事言うたってどうすんの。
  まあ私の心の中にはもう「本当に合楽を舐めとる気がする」っちゅう事が心の中にあるわけ、穏やかじゃないわけです。おかしな話ですよね、たったそのくらいな事ですから、田中さんがそう言うてみえた時に、「はあ神様の御都合ですが」と、何かおかげ頂くとでありましょうと言うておれればいいのである。それこそ、静かにしておればいいのである。ね。その位の力はあるはずなんだ。
  けれどもたったそう言う事になるとです、もう迂闊に「どうした事じゃろう」と思う。もううちをなめとるけん、そう言う様な事になる。と言う様な思いがする。次の瞬間はどう言う事でしょうか。次の瞬間には長瀬さんが二度目の朝のお参りになった。勤めに行かれる時に寄られた。そうする前に高橋さんがみえた。だから高橋さんも「僕の車では楽員さん方を何人も乗せて行かにゃならんから」琴が乗らん訳です。乗用車ですから。「ほな誰か頼まんむつやになっと電話掛けようか」ちゅうて言いよりなさった。
 そこへ長瀬さんがみえた訳です。そのまま久留米の務めですから、しかもあの小さい小型のトラックですから、4面楽に入れる事ができる。もう神様の働きこれがどうでしょう、私が言う様に前の晩から、実はこうして頂きに回らにゃならんのですけれども、すいませんけれどもお宅から運んで頂けんでしょうか、手がないからと言われたらです、こっちも気分が良かったろう。
 けれどもそれは、そんなら誰かにわざわざ頼まにゃできん訳でしょう。ところが向こうからね、全然電話も掛けてこないこっちから、電話を掛けてからそう言われたからこそ、そのような神ながらなおかげを受けられた。わざわざ琴ば運びに来てと頼む事もいらん。丁度長瀬さんが琴を運んで下さる。楽員さんは高橋さんが乗せて行って下さると言う様なおかげがです、頂けるようにちゃんとなっとるとです。
 それを例えばちょっとの間でもですね。「合楽を舐めとるけんそげなこつ」という、そげな事を思わんでもよいのですよ。私はそう言う様な事柄の中にですよ、静けさというかね静かにしておれれる信心を頂きたい。日常生活の中でそやけどもそらもう困ったね、と言う前にですね先ずそれが大した事じゃなくてもです、目をつぶるだけの余裕が欲しい。そしてこれは何か神様の御都合に違いはないと分からして頂くと言う事ね。そこにはです、はぁ成程神様のこういう御都合があってからの事だと分からして頂く。
 もう日常生活の中にそういう力ならお互い、もうできておる。そのくらいな事ならば。だからその力を行使しなかったら信心を頂いておる値打ちがない。そうですねそういう時に信心のない者と一様にそれほどしになって家を舐めとるけんそげなこっていち言うて腹かきよるなら、もう信心しよる値打ちはなかつと同じ事ね。まあそれを言うた後にです、はあほんなこつ、こりゃ神様の御都合。まあいらん事言うたと思うもう次の瞬間には車が来ておると言う事。
  例えば、合楽でだんだん稽古をさして頂いておる人がです。例えて言うなら目の前が真っ暗になるような事が、突発的な事が起こって時などはです、案外どっこいと受けておる。それは日頃の信心がものを言う訳です。けれども、日常茶飯事に起きてくるその事をです、どうしてだろうかと腹を立てたりイライラしたりね、悔やんだり不平を言うたりしておると言う様な事では、いわば力が力にならない。
 頂いておる力を行使しなければ静かさは生まれて来ないね。そういう些細な事の中から静かにしておれれる信心。そういう信心が頂けておる時ですね、その後に生まれてくるのは、今日佐田さんじゃないけれども、どっから湧いてくるか分からん有難さというか勿体無さというか、信心頂いておる事の有難さ、勿体無さ。有難いなとお礼を申さして頂く生活。お詫びをさして頂く生活。
 それでも尚且つ願わなければおられない、いわばその、願いといいお詫びとね。そして御礼とが一つになって神様へ向わして頂く日常生活というものがですね、いよいよ力を力としての蓄積というかね、お徳を受けて行く、いわば信心生活さして頂く者のこれは姿である、なからなければならんと思うね。力ある静けさ。よく一ぺん考えてみて下さい。力があればこれがどのような場合であってもそれこそね。
 山のようにどっしりとしておれれる訳です。ただ物があるから金があるから。いかにも落ち着いておるごとあるけれども、金やら物やらではどうにもできない問題があるそういう時に慌てなければならないような事では、それは本当の静けさとは言えない。神様を信じる力が、静かな生活が出来る。静かに黙っておれれる。いやぁおかげだ、はぁ神様の御都合だと言えれる信心を頂きたいもんであります。
   どうぞ。